賛否両論を生みながら、オリンピックが閉幕しました。
招致が決まって皆が誇らしくジャケットの胸に着用していたオリンピックのピンバッジも、オリンピック延期決定からは多くの人が外してしまっているように思えました。
私たちは普段生活する上で、ものごとの価値や良識を重んじて日々過ごしています。
その価値や良識といった類のことは急に変わることがあるので、気をつけないといけません。
価値が変わってしまう原因は不特定多数のひとの心の動きですから、制御することは難しいものです。そうした価値観を自分が生きていく上での拠り所にしてしまうと、喪失した時の苦は大変に大きいものです。自分とはなんであるか明らかにして、自分を拠り所にすることが大事です。
中国宋代の禅宗の典籍である『碧巖録』に、世にはびこる価値観にとらわれず、鮮やかに生ききった禅者の逸話が出てまいります。
懶瓚和尚(名瓚という名であるが、懶瓚=怠け者の瓚和尚という通称で呼ばれていた)は、衡山の石室に隠棲していました。唐の徳宗(唐の9代皇帝。在位780~805)はその名声を聞いて、使者を遣わしお召しになりました。使者が懶瓚和尚の住む石室に至って口上を述べました。
「天子の詔です。尊者は起立して御恩に御礼しなさい」。
懶瓚和尚は、ちょうど牛糞を燃やして、焼芋を探し当てて食べていて、鼻水が顎まで垂れていたが、口上について返事はしなかった。
使者は笑いながら
「和尚、鼻水を拭かれよ」
と諭したが、
「自己の探求に忙しい私が、どうして俗人のために鼻水を拭く暇があるだろうか」
と罵り、ついに立ち上がることはなかった。
使者は徳宗皇帝の元に戻り、ありのままを報告した。それを聞いた徳宗は大いにうなずいた。
この逸話を受けて、『碧巖録』の編者である圜悟克勤禅師は、
まさに「清寥寥 白的的」(まったく曇りのなく清々として、やましさがない鮮やかさ)。
ひとから指図を受けたり、価値を強いられることもない。まるで、鉄を鋳造して造られているようだ。
と評し、今回の表題である清寥寥 白的的という語を用います。
唐の徳宗皇帝という箇所は、『碧巖録』の他版では第7代皇帝粛宗となっています。
さて、唐の徳宗の治世は安史の乱の沈静化に動いていた時期です。また徳宗は仏教を重んじ、みずから菩薩戒(大乗の戒律)を受け、長安にて訳経事業を進めます。この事業には、密教を唐に定着させたサマルカンド(現ウズベキスタン)出身のソグド(ペルシャ系の農耕民族)系民族であった不空などが中心になりましたが、訳す言語に長けていた景教(431年のエフィソス公会議で異端認定されたキリスト教の一派であるネトリウス派がペルシャ→中央アジア→モンゴル→中国と教線を拡大していった)の宗教者も訳経に携わったようです。
求道心だけでなく、政治中枢との結びつきも視野に入れながら訳経は推し進められました。
様々な民族が混在していた唐の社会で、次第に唐王朝は勢力を弱め、徳宗は長安から奉天府などに避難することになります。ひとやものの価値が激しく移ろいゆく中で、南岳衡山(道教の陰陽五行思想に基づいた五方位の山のひとつ。東岳泰山・南岳衡山・中岳嵩山・西岳華山・北岳恒山)の懶瓚和尚の噂を耳にして、使者を遣わしめます。一見みすぼらしく不敬ではありますが、これまでの修行底によって示された執着から離れた和尚の鮮やかな生き様を感じ取り、徳宗は大いに感服するのです。懶瓚和尚の遺した『樂道歌』には次のような一句があります。
粮は一粒も蓄えず
飯に逢えば但だ食らうのみ
世間多事の人は
相追うも渾て(すべて)及ばず
(意訳)穀物は一粒もたくわえず、飯にありつけば只くらうだけ
よけいな事ばかりしたがる世間の人が、追いつこうとしても
まるで追いつくものではない。
生来の怠け者で、目の前の飯に食らいつくだけではないのです。
葛藤を重ね、多年の修行の末に、執着という埃をすべて捨ててこの境地に至ったのですから、凡人には到達し難い鮮やかさを懶瓚和尚は醸し出していたと思います。そのことを評して「清寥寥 白的的」と言ったのでしょう。
この境地に達することや、このような環境で生活することは大変に難しいことです。
けれど、多年にわたる修行や彼の生活環境をもってしなくては、執着は捨てきれないということ、そして老齢になっても他者との関わり合いやコミュニティで生成された価値は常に私たちの執着として心身に蓄えられてしまうことを知るだけでも日々の生活が変わることでしょう。尊んでいた価値観や良識は時に執着となることを知り、自らを拠り所にすることなく「清寥寥 白的的」と生きていきたいものです。
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