臨済宗 妙心寺派 白雲山 金龍寺
りんざいしゅう みょうしんじは はくうんさん きんりゅうじ
金龍寺は、 浅草に所在する禅寺です。
東京メトロ銀座線田原町駅より徒歩2分・ 都営地下鉄大江戸線蔵前駅より徒歩10分の好立地、
木立に囲まれた木造の本堂を有し、法話・坐禅会・会社研修などを催しています。
徳川家康の長女奥平侯信昌之室盛徳夫人(亀姫)が開基、南傳宗涌禅師を開山に迎えて、
慶長16年に現在の八丁堀に創建、寛永12年に浅草寿町に移転したと伝えられています。
関東大震災と東京大空襲で焼失しましたが、その都度に再建され、浅草の賑わいの中にありながら椿・桜が咲き誇り、
夏みかんや葡萄が実り、モミジが鮮やかに紅葉する静かな禅寺です。
宗派は臨済宗妙心寺派。臨済宗は禅宗の一翼を担い、坐禅や作務によって迷いや余計な計らいから離れ、
目の前のことにまっすぐに取り組むことを説く教えです。大本山は京都右京区花園の妙心寺、妙心寺派は全国3,400ヶ寺を有します。
金龍寺所蔵の文化財 荷田在満墓
江戸時代中期の国学者で、本姓は羽倉氏で、字は持之、号を仁良斎という。
通称は東之進、在満はその名である。京都伏見の稲荷神社の神官荷田信詮の三男高惟の長男として京都に生まれた。
23歳の享保13年(1728)9月24日、和学者として登用されることを求めて、妹蒼生子とともに江戸に下った。
徳川吉宗の次男で有職故実の研究者として知られた田安宗武に仕え、有職故実の調査に従事した。
元文3年(1738)桜町天王の大嘗会(天皇が即位後初めて行う新嘗祭)に際し、幕命により「大嘗会儀式具釈」9巻を撰進した。
翌年別に「大嘗会弁蒙」2巻を無断刊行して幕府に咎められ、閉門を命じられた。
また、寛保2年(1742)に「国家八輪」が宗武の意見と対立し、延享3年(1746)田安家を退隠した。
叔父の春満が有職故実の研究を敬称発展させて精緻な家風を打ち立て、
歌論では芸術主義を貫いて、近世歌論の展開にひとつの時期を画した。
宝暦元年(1751)8月4日45歳で死去し、臨済宗京都妙心寺派の金龍寺に葬られた。
著書に「大嘗会便蒙御咎顛末」「令三弁」「本朝度制略考」「羽倉考」擬古文学に「白猿物語」「落合物語」がある。(東京都教育委員会)